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パラリンピック教育用教材「I'mPOSSIBLE」とは?

2020.06.10 WED
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パラリンピック教育用教材「I'mPOSSIBLE」とは?

2020.06.10 WED
パラリンピック教育用教材「I'mPOSSIBLE」とは?
パラリンピック教育用教材「I'mPOSSIBLE」とは?

新型コロナウイルス感染症の影響により開催が1年延期になりはしたが、パラリンピックやパラスポーツへの注目度は高まっている。ところで、パラリンピックを題材に共生社会への気づきを促す教材「I'mPOSSIBLE(アイムポッシブル)」が、国内外の教育機関で採用されているのをご存じだろうか。同教材を開発し、リバースエデュケーションを実践しているマセソン美季氏に、開発の経緯、パラリンピック教育の重要性を聞いた。

Edit & Text by Tamako Naoe(lefthands)
Photographs by Yoko Ohata and Courtesy of THE NIPPON FOUNDATION PARALIMPIC SUPPORT CENTER

リバースエデュケーションによるパラリンピック教育は何を伝えようとしているのか

「教育」というと、通常は大人から子どもへの学問や技術の伝授を意味するが、「リバースエデュケーション」は子どもから大人への情報の伝播を指す。先入観や偏見のない子どもたちの方が新しい価値観を受け入れやすく、また興味を持った内容を伝えるエネルギーが大きい。その利点に着目し、多様性が認められ受け入れられる共生社会の実現を目指すパラリンピック教育の教材「I'mPOSSIBLE」が開発された。
2007年に東京の東久留米市立神宝小学校で行われた世界初の『I'mPOSSIBLE』公開授業
2007年に東京の東久留米市立神宝小学校で行われた世界初の『I'mPOSSIBLE』公開授業
パラリンピックは、障害があるトップアスリートが出場できる世界最高峰の国際競技大会である。しかし、パラリンピックの意義を本当に理解している人は少ない。

「様々な障害のあるアスリートたちが、創意工夫を凝らして限界に挑むパラリンピックは、多様性を認め、誰もが個性や能力を発揮し活躍できる公正な機会が与えられている場である。それは、共生社会を具現化するための重要なヒントが詰まっている大会であり、社会の中にあるバリアを減らしていくことの必要性や、発想の転換が必要であることにも気づかせてくれる(I'mPOSSIBLE「教師用ハンドブック」より)」

今、まさしく求められている「多様性(ダイバーシティ)」や「共生(インクルーシブ)社会」こそが、パラリンピックを開催する意義なのである。パラリンピックの認知度向上をはかったり、パラアスリートを応援することだけでなく、パラリンピック開催の意義を伝えるのがパラリンピック教育と位置付けられる。

パラリンピック教育のリバースエデュケーションと国際パラリンピック委員会公認教材「I'mPOSSIBLE」

国際オリンピック委員会(IOC)と国際パラリンピック委員会(IPC)に、日本人では初となる教育委員として任命されたマセソン美季氏。日本財団パラリンピックサポートセンター プロジェクトマネージャーとして活躍しながら、IPC公認教材「I'mPOSSIBLE」日本版の開発リーダーを務めた。彼女自身も中途障害者で、大学生の時の交通事故により車椅子で生活している。1998年の長野パラリンピックでは、アイススレッジスピードレースのパラアスリートとして金メダルと銀メダルを獲得した。
カナダと日本を行き来して仕事に取り組むマセソン美季氏。
カナダと日本を行き来して仕事に取り組むマセソン美季氏。
マセソン氏は社会を変えるには、まず大人のマインドセットが必要だと考えていた。そのためパラリンピックを通じて伝えたいメッセージを、どれだけ分かりやすく盛り込むかを重視していた。しかし、大人への教育は常に先入観と偏見に阻まれ、彼らの考え方を変えることは非常に困難であり、ストレスフルであると感じていた。

そんな折に、教育委員に任命され、パラリンピック教育用の教材開発を始めた当初、IPCのフィリップ・クレイヴァン前会長が唱えるリバースエデュケーションに出合って共感し、子どもを対象とした教材開発へと舵を切る。

その際、実際に教材を使う現場の意見を活かそうと、数多くの教員や教育関係者らに話を聞き、取り入れやすさと使いやすさに重点を置いて開発に当たった。

日本の教育現場における長時間労働の改善を目指す動きを踏まえ、短時間で事前準備ができるよう、配布資料、指導書、映像資料など、必要な資料を1つのパッケージにまとめた。障害がある当事者や関係者でなくとも、あるいは特別な道具がなくても、授業に取り入れられるアイデアや工夫の仕方が伝わる教材になっている。
IPC公認教材『I'mPOSSIBLE』は配布資料、指導要項、映像資料等のセット
『I'mPOSSIBLE』の教材を使った授業風景。パッケージから出してそのまま使える
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その名前にも思いが込められている。“IMPOSSIBLE”にアポストロフィを1つ付けるだけで「I'mPOSSIBLE」となる。“不可能”が一つの点を追加するだけで“可能”になるのだ。

「全てのことは工夫すれば解決できる」と、マセソン氏は笑いながら語る。それは、自身が交通事故の後、車椅子で大学に復学し、体育の教員免許を取得する際の経験に裏打ちされている。実技の授業で単位を取るために、見学は許されない。公平なルールや、満足できる参画の仕方について、仲間たちと話し合い、考え抜いた経験が活きている。

また、実際に教材を使った教育現場にも足を運び、教員からも児童・生徒から質問を受け付けることもある。小学生でも、大人の前では言葉を選んで「今までしてもらったことで一番うれしかったことはなんですか」というような当たり障りのない質問をする。周りの大人たちも「失礼な質問をしないか」と心配しているのが分かる。
教員向けの講習会でも、自ら会話に参加して積極的な意見交換を欠かさない
教員向けの講習会でも、自ら会話に参加して積極的な意見交換を欠かさない
しかし大人が離れると、子どもたちは聞きたいことを遠慮なく聞いてくるという。例えば「お風呂はどうしているの?」「ここまでどうやって来たの?」など。そういった質問にもマセソン氏は「分からないなら質問をして理解すればいい」と躊躇なく答える。

最初は遠慮がちな顔をしている子どもも、質問して理解すれば納得し、帰り際には笑顔でハイタッチするほど打ち解ける。

カナダに暮らす彼女は2児の母親でもあるので、毎日の炊事、洗濯といった家事も、子どもの送迎や買い物のための車の運転も、休みの日にジムに行ったりスキーをしたり、家庭菜園の畑仕事をすることも日常なのだが、障害のある人の生活を想像できない子どもたちが多いと感じている。

彼女は車椅子に乗っているだけで普通の生活をしていること、常に困っているわけではないし、自分でできることもあると伝えたいのだ。子どもだけでなく大人にも。
シッティングバレーボールを体験する生徒たち。パラスポーツはどれも思ったよりも難しく、夢中になる
ビニール袋を巻いたボールを使ったゴールボールでは、子どもたちが考えた独自のサポートルールも使用
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早期教育、多種多様な視点の大切さ

「I'mPOSSIBLE」を活用している国内外の現場に視察で訪れたマセソン氏が気づいたのは、先進国でも発展途上国でも、初めて障害がある人を見た時の子どもの反応は同じだということ。

大人になってから障害がある人への対応が違ってくるのは、いつどこからなのかを突き詰めると、教育が大きな差を作り出しているという事実が浮かび上がる。できるだけ早いタイミングで正しい知識を身につけることや、違いを尊重する経験を重ねることで、多様性を受け入れ、共生社会の一員となる大人になれる。

そのためには、就学前の幼児教育から実施することが望ましいとマセソン氏は希望を語る。素直に違いを楽しめるのは、先入観のない子どもだけかもしれないからだ。また幼児向けの教育現場には、その保護者もいることから、子どもだけでなく、大人も一緒に学んでもらえる機会を提供できる。
日本財団パラリンピックサポートセンターにある「i enjoy !」をテーマに香取慎吾氏が描いた壁画
日本財団パラリンピックサポートセンターにある「i enjoy !」をテーマに香取慎吾氏が描いた壁画
マセソン氏が生活しているカナダと日本の違いを聞くと、カナダでは気にはかけてもらってはいるが、放っておいてもらえる。それでも、必要な時は手助けしてもらえる環境で居心地がいい。一方、日本では物理的なバリアフリーが進んでいる点も多いが、見ないふりをしている人も多く、居心地が悪く感じることもある。

「自分が乗っている満員のエレベーターが止まった階に、車椅子の人がいたらどうするか」と高校生に質問すると、両国の違いがあらわになった。カナダの高校生は「車椅子の人はエレベーター以外に選択肢がないから優先されるべき。すぐに降りて車椅子の人を優先する」と言う。ところが日本の高校生は「順番を待てばいい。(障害のある人たちは)特別視してほしくないというのに、その時だけ特別扱いするのはおかしい」と答えた。

マセソン氏は目から鱗が落ちる気がしたという。日本の高校生にカナダの高校生の考えを伝えると、「考えたこともない視点だった。言われてみれば、その通りだと思う」という反応もあり、安堵した。当事者だけでなく、いろいろな視点から物を見たり考えたりする経験は、多様性を受け入れる基盤を作る。教育の大切さを物語るエピソードだ。
『I'mPOSSIBLE』を使った授業の後、参加した子どもの明るい笑顔が最大の成果
『I'mPOSSIBLE』を使った授業の後、参加した子どもの明るい笑顔が最大の成果

パラリンピック教育元年といわれる2020年とこれから

2020年はパラリンピック教育が日本の教育要綱に取り入れられたことから、パラリンピック教育元年ということができる。リバースエデュケーションを活用することで、大人が忘れてしまった子どもならではの視点を思い出させてもらえる。忘れてしまっていたからこそ新鮮に感じられ、深い理解を得られるのだ。

百聞は一見に如かずともいうが、例えばアーティスティックな切り口でパラアスリートを取り上げているグラフィックマガジン「GO Journal」も、新しい視点を与えてくれるだろう。同誌のクリエイティブディレクターである蜷川実花氏が撮り下ろした、パラスポーツの興奮とパラアスリートたちの息づかいが感じられる写真は、私たちの先入観を揺さぶり、転覆させ、共生社会の発展に向けて意識改革を喚起するに余りある。
蜷川実花氏の「みんなそれぞれ違うことが、もっともっと普通になったらいい」が伝わるフリーマガジン
蜷川実花氏の「みんなそれぞれ違うことが、もっともっと普通になったらいい」が伝わるフリーマガジン
IPCがパラリンピックを通じて伝えたいのは、障害への認識や態度を変えてもらい、先入観を捨てて、すべての人が受け入れられる共生社会を作りたいという思いである。マセソン氏はそれに基づいて、「違うということに自信を持って、誰もが居心地良くいられる日本社会ができたら」と話す。

「日本は他国に比べて同調圧力が強いので、違っていると不安になったり、怖がったりしてしまう傾向がある。パラリンピックの勉強をすると、多様な障害と公平にする工夫を学ぶことになる。そこから違ってもいいという安心感が生まれ、自分の違いを受け入れ、周りの違うことを受け入れられる豊かな社会につなげることができる。そのために、これからも世界を飛び回ってパラリンピック教育の普及に努めたい。できるなら、今度は幼児用の教材開発にも取り組みたい」と語る笑顔の奥に、強い意志を感じた。
長年教育に携わるマセソン氏は、パラリンピック啓発活動を担う天職を全力で楽しみ、最大限の情熱を注ぐ
長年教育に携わるマセソン氏は、パラリンピック啓発活動を担う天職を全力で楽しみ、最大限の情熱を注ぐ
彼女が東京パラリンピックで注目しているのは、メディアの伝え方。結果だけでなく、社会のあり方を変えるというパラリンピックのメッセージが、どのように取り上げられるかが一番気になるという。

注目する競技は彼女がパラスポーツに初めて出会った車椅子バスケットボール。アスリートは彼女が長野パラリンピックで一緒に競った、トライアスロンの土田和歌子選手。パラリンピックの競技会場で、「I'mPOSSIBLE」で学んだ子どもたちが観戦しているのも見たい光景だろう。参加するすべてのアスリート、パラアスリートの健闘を祈りたい。


日本財団パラリンピックサポートセンター
https://www.parasapo.or.jp/

『I'mPOSSIBLE』日本版
https://www.parasapo.tokyo/iampossible/

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