SPORT

プロゲーマーの
先駆者、

梅原大吾氏が

抱える「矛盾」

2021.10.13 WED
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プロゲーマーの
先駆者、

梅原大吾氏が

抱える「矛盾」

2021.10.13 WED
プロゲーマーの先駆者、梅原大吾氏が抱える「矛盾」
プロゲーマーの先駆者、梅原大吾氏が抱える「矛盾」

10代のころから、脇目も振らず格闘ゲームの腕を磨いてきた。「これが仕事になれば」──それは夢というより空想だった。だが、いつしか世界が変わる。スポンサーのオファー、そして大会賞金の高騰。積年の願いをかなえたはずの男が明かす、知られざる葛藤とは。

Text by Kyozo Hibino
Photographs by Teddy Morellec/Red Bull Content Pool
Edit by Toshiaki Ishii(river co.,itd.)

誰とも遊びに行かない謎の人

梅原大吾氏は、「世界で最も長く賞金を稼いでいる」としてギネス世界記録に認定されたプロゲーマーだ。初めて米国企業とスポンサー契約を結んだのが2010年。その後も複数のスポンサーを得ながら、10年以上にわたりプロとして格闘ゲーム界を牽引し続けてきた。

経歴に、ひときわ目を引く時期がある。

中学時代、1年のうち大みそかと元日を除く363日、ゲームセンターに通うようになり、それを8年間も続けたというのだ。

梅原氏が振り返る。

「自分がゲームをしているということを、ゲームセンターの仲間以外に言ったことはなかった。学校のクラスメイトからすれば、誰とも遊びに行かない謎の人だったでしょうね。秘密の活動でした」

後ろめたさがあった。当時、ゲームは勉強などの時間を奪う悪いものとみなされ、梅原氏にもその認識は刷り込まれていた。アルバイトを始め、自身の要領の悪さを思い知ったときは「ゲームばかりやっているから、みんなができて当たり前のことができないんだ」と自分を責めた。
初めてゲームに出合った11歳のころの梅原大吾氏  Photograph by Cooperstown Entertainment
初めてゲームに出合った11歳のころの梅原大吾氏 Photograph by Cooperstown Entertainment
それでも、格闘ゲームに熱中し続けた。なりたい職業があり、そのために勉強や部活をがんばる──そんな人生の道筋を思い描けない以上、目の前の好きなものに打ち込むしかなかった。

「周りは、就職というゴールに向けて準備をしている。でも、僕はそういう方向に1ミリも進んでいない。むしろ逆走しているから、『どうなっちゃうんだろう』という不安はありました。ただ、自分にできそうな仕事として思い浮かぶものが一つもなかった。世界が大きく変わってくれることを願っていたような気がします。運に任せる、というか」

だが、ゲームひと筋に生きる男にふさわしい職業が降ってくるような「世界」が、そうやすやすと訪れるはずもなかった。

砂漠に水が染み込むように

全国大会、世界大会で優勝を重ねるなど、10代にしてゲームの腕はすでに一流だった。用意された賞金はたかだか数万円だったが無邪気に喜んだ。

やがて、全力で走り続けてきた梅原氏に、速度を緩めるときが訪れる。

20歳になった2001年、4連覇がかかった全国大会で敗退したのを機に、熱がトーンダウン。もう世界の頂点は極めた、自分も「普通」の生活をしなくてはダメだと、2004年にはゲームから完全に離れた。
17歳で、世界大会を制覇 Photograph by Cooperstown Entertainment
17歳で、世界大会を制覇 Photograph by Cooperstown Entertainment
その後、生計を立てるすべがなかった梅原氏は麻雀のプロを目指した。持ち前の勝負勘を発揮し、腕が立つ雀士となったが、どこか違和感を拭えず数年で身を引いた。飲食業を挟んで介護の仕事に就く。そこでようやく、精神的に安定した生活を手に入れた。

初めての「普通」の暮らしに心が休まる一方、自らの存在意義は見いだしづらくなっていた。梅原氏は言う。

「ゲームの世界では有名人で、勝つこともできたけど、そういうものが一切なくなって、自尊心が落ちるところまで落ちました。20代半ばからの5~6年は、僕の人生において最大の逆境だったかもしれない」

転機となったのは、2008年、格闘ゲーム「ストリートファイターⅣ」がリリースされたことだった。友人の強い誘いを受け「そんなに言うなら」とプレイした。久々に楽しさを味わい、ブランクなど関係なく勝てた。

「砂漠に水が染み込むように感動が押し寄せてきました。それまでは心のどこかに『なんでゲームなんかに時間を費やしたんだ』という後悔があったけど、『これは俺の生活の一部としてあるべきだな』と改めて思いました」

あくまで趣味感覚での再開だったが、2009年に招待された米国の大会で優勝を果たす。

一度は表舞台から姿を消した凄腕ゲーマーの劇的な復活──。米国のゲーム周辺機器メーカーからスポンサーの話が舞い込んだのは、翌2010年のことだ。

ゲームと距離を置いていた間に、「世界」は変わり始めていたのだ。梅原氏が若かったころ、絵空事でしかなかったプロゲーマーという職業が、ついに現実のものになろうとしていた。

求めすぎていたがゆえに受け入れがたい

ところが、夢の実現を目前にして、梅原氏は悩む。ようやく「普通」の生活を送れるようになったのに、それを手放し、また不確かな立場に身を置くのか。そんな迷いに加えて、長年の間に培われた固定観念がブレーキをかけた。

「ゲームで身を立てられたらどんなにいいだろうって思っていた期間があまりにも長かったせいで、オファーがあったときは『そんなことあるわけないだろう』と。求めすぎていたがゆえに受け入れがたい、思いが強すぎてちょっと信用できない、みたいなところが最初はありました。ただ、10年、20年経ったとき、ここでチャレンジしなかったら絶対に後悔するだろうなと思ったんです。じゃあ、やってみるか、と」
2018年に東京で開催された日本主催の「EVO Japan 2018」の模様
2018年に東京で開催された日本主催の「EVO Japan 2018」の模様 Photograph by Jason Halayko/Red Bull Content Pool
若かりしころの理想と、それに追いついてきた現実。二つの世界のギャップがもたらす矛盾は、プロとして歩み始めたあとも梅原氏につきまとうことになる。

ゲームで勝敗を決する行為を指して、2000年あたりから「eスポーツ」という言葉が使われ始めた。腕利きたちの真剣勝負が観衆を熱狂させる構図が生まれ、世界中で大会が開催されるようになった。世界のeスポーツの市場規模は約9億7390万ドル(2020年時点)にまで膨らんでいるといわれ、いまでは優勝賞金が1億円を超える大会も珍しくない。

そうした変化を梅原氏が実感したのは、2015年。数百万円が相場だった優勝賞金のケタが一つ増えた。この年、ある大会に参加した梅原氏は、準優勝ながら6万ドル(約700万円)の賞金を手にしている。

大好きなゲームで一攫千金──それは本望だったはずだが、実力でつかんだ大金を懐にしまわなかった。ニューヨーク大学に全額寄付したのだ。ゲームデザイン学科を有する同大学は、最大の格闘ゲームイベント「EVO」と連携して奨学金制度を設けるなど、格闘ゲームコミュニティと縁が深いことから、寄付先に選んだ。
米ラスベガスで開催された世界最大級の格闘ゲーム大会「EVO」の2019年大会にも出場
米ラスベガスで開催された世界最大級の格闘ゲーム大会「EVO」の2019年大会にも出場 Photograph by Marv Watson/Red Bull Content Pool

俺の好きだった業界が変わっていく

その理由を、梅原氏は言葉に悩みながら説明する。

「なぜそういうことをしたのか……自分でも分析するのが大変なんですよ。一つには、その年から賞金が急激に上がったことがありますね。すごいなと思う気持ちが半分。もう半分は、『俺の好きだった業界が変わっていくな』という寂しさや不安もあって。ゲームを認めてほしいって気持ちがすごく強かったけれど、その反面、ゲームは悪いものだって社会に教育されてしまっているんです、自分も。だから、eスポーツとして盛り上がっていく中で、『そんなに肯定されていいのかな』みたいな違和感がある。優勝して5万円もらっていた時代を思い返すと、それはそれでよかったなあって」

もう一つの理由は、その大会が「ストリートファイターⅣ」で戦う最後の機会だったからだ(翌2016年2月に「ストリートファイターⅤ」が発売された)。賞金の全額寄付には、「自分の人生を変えたゲーム、居場所をつくってくれたコミュニティ への恩返し」という意味も込められていた。

梅原氏は言う。

「いまでもそうですけど、若いときといまの状況の落差がありすぎて、自分自身、この状況に納得しきれていないんでしょうね。申し訳ないというか、『いいのかな』みたいな気持ちがある。だから、去年、今年と(配信による収益を慈善団体に寄付する)チャリティー活動をやったりしているような気がします 」

内面に矛盾を抱えながらも、先駆者である梅原氏の行動や言葉は、プロゲーマーという新たな職業のイメージをかたちづくってきた。プロ活動の開始と同時に、新聞や雑誌から取材の申し込みが来るようになった。テレビ出演や著書の刊行などを通じて、かつてゲームやゲーマーにつきまとっていた負の印象は徐々に払拭された。梅原氏のあとに続くプロゲーマーも増えてきている。

ゲームセンター帰りの空想インタビュー

自身がそうした役割を果たしたことについて、梅原氏は興味深いことを言った。

「インタビューだと思いますね。ゲームというもののイメージと、僕のインタビューでの返答にギャップがあったと思うんです。『ゲーマーなのに、こんなに物事を考えているんだ』って。実際、そういう感想をよく言われましたし、記事を読んだ一般の人たちから、『ちょっと面白いかも』と興味をもってもらえたかもしれない」

10代の終わり、都心のゲームセンターからの帰り道。駅から自宅まで1時間ほどかけて夜道を歩いた。道中、インタビューを受ける未来の自分を空想していた。苦笑交じりに思い返す。

「万が一、いまみたいな状況になったときに備えて、受け答えの訓練をずっとしていました。自分が質問者になって、自分で答えて。その答えを受けて、また質問する。どうすれば自分のやっていること、考えていることをうまく伝えられるのかなって。それが生きたんです。ウソみたいな話なんだけど」
2018年に開催された「Red Bull Gaming Sphere Tokyo」でのオープニングトークショー
2018年に開催された「Red Bull Gaming Sphere Tokyo」でのオープニングトークショー Photograph by Jason Halayko/Red Bull Content Pool
梅原大吾氏は、そのころから2人いたのかもしれない。

いま、1人は、待ち望んでいた「世界」の到来にまだ戸惑っている。ゲームあるいはeスポーツがメジャーになればなるほど、アングラな雰囲気を漂わせていた昔のゲームセンターの世界が遠ざかっていくのを感じる。「本来なら、若い時期を自分が好きなことにつぎ込んだ報いを受けるべき人生だった」などと口走る。

もう1人は、プロフェッショナルとして、自己鍛錬に励んでいる。40歳という節目の年齢に達し、視線をゲーム業界全体にも向ける。

「個人的には、ゲームの枠を出たいという欲求はまったくないです。ゲーム業界が大きくなってくれないと、自分も大きくなれないと思っています。業界と一緒に前に進んでいきたい」

仕事になる見込みもなかった格闘ゲームに「自分の人生を全部投げちゃった」。当人いわく「異端」かつ「第1号」の生き方は、何の因果か、うまくいった。

暗がりを好む男にとって、舞台のスポットライトはおそらくまぶしすぎるだろう。それでも、目を細めながら先頭を走っていくのが、梅原氏の宿命だ。

梅原大吾 Daigo Umehara

プロゲーマー。1981年青森県弘前市生まれ。11歳のとき、格闘ゲーム「ストリートファイターII」に出合う。以来、ゲームセンターに通いつめ、15歳で全国優勝、17歳で世界大会優勝。2004年、世界規模の大会「EVO2004」準決勝で土壇場から逆転勝ちを収めた一戦は「背水の逆転劇」として語り継がれている。その後、ゲーム界から離れるも、2008年に復帰。2010年よりプロ活動を開始し、国内外の大会に参戦するほか、講演やメディア出演など多方面で活躍。著書に『勝ち続ける意志力 世界一プロ・ゲーマーの「仕事術」』(小学館)ほか。
http://daigothebeast.com

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