サルバドール・ダリの『記憶の固執』
スペインの画家、サルバドール・ダリに『記憶の固執』という作品がある。荒涼とした風景のなかに、ぐにゃりと変形した3つの時計が描かれたこの作品は、ダリが1931年に油彩で描いた代表作として、よく知られている。
現在、ニューヨーク近代美術館に所蔵されていて、私もかつて実物を何度か見に行ったことがあるが、おそらく世界で最も有名な“時計を描いた絵画”のひとつだろう。横幅が33センチで縦が24センチほどで、初めて見たときはその小ささが意外ではあったが、逆にダリらしい緻密な筆致の作品を際立たせていた。緻密さゆえ堅牢な時計が、ぐにゃりと変形している描写は、見るものを不思議な世界に引き込むのである。
かつて、澁澤龍彦は著書『幻想の画廊から』(青土社)のなかで、この作品について「ダリのなかに、おそらく、かたちのはっきりした堅固なものに対する知的な執着と、形の定まらないぐにゃぐにゃしたものに対する無意識の執着との、奇妙なアンビヴァレント(両極性反応)が潜在しているに違いない」と書いているが、堅牢性と柔軟性が拮抗する不思議なイメージの世界を、知的にかつ禁欲主義的に表現していることが、この作品の深い魅力なのだろう。
現在、ニューヨーク近代美術館に所蔵されていて、私もかつて実物を何度か見に行ったことがあるが、おそらく世界で最も有名な“時計を描いた絵画”のひとつだろう。横幅が33センチで縦が24センチほどで、初めて見たときはその小ささが意外ではあったが、逆にダリらしい緻密な筆致の作品を際立たせていた。緻密さゆえ堅牢な時計が、ぐにゃりと変形している描写は、見るものを不思議な世界に引き込むのである。
かつて、澁澤龍彦は著書『幻想の画廊から』(青土社)のなかで、この作品について「ダリのなかに、おそらく、かたちのはっきりした堅固なものに対する知的な執着と、形の定まらないぐにゃぐにゃしたものに対する無意識の執着との、奇妙なアンビヴァレント(両極性反応)が潜在しているに違いない」と書いているが、堅牢性と柔軟性が拮抗する不思議なイメージの世界を、知的にかつ禁欲主義的に表現していることが、この作品の深い魅力なのだろう。
ダリ作品とグランドセイコーとの共通点
まったくの独断なのだけれど、グランドセイコーの、この時計も別の意味で、私はアンビヴァレントなイメージを重ねてしまうのである。
写真の時計は、昨年セイコーがスプリングドライブという機構を開発して20年という節目に発売されたものであるが、話を進めるまえに、まずスプリングドライブの説明を少し加えたいと思う。
この機構は、セイコーが1999年にリリースした、セイコー独自の時計の“エンジン”のことである。有り体にいってしまえば、機械式時計の強いトルクと、クオーツムーブメントの高性能を併せ持った、まったく新しい技術である。
私は時計の専門家ではないので詳細は省くが、ユーザーの立場としてメカニズムの特徴を挙げるとすれば、大きく二つあり、ひとつは完全な無音であるということ。もうひとつは“スイープ運針”ということだ。
運針とは針の動きのことだが、秒針が流れるように動くことを、スイープ運針という。ちなみに、クオーツ時計の場合は、1秒に1秒針進む“ステップ運針”という。一般的に機械式時計はスイープ運針なのだが、厳密には1秒を細かく区切って動いている。しかしこのスプリングドライブは、完全に近いスイープ運針になっている。
たかが秒針の動きに大げさな、と思うだろうか。実は、私も最初はその機構の凄さと価値がよくわからなかったのだが、静謐にそして流れるように動く運針を眺めているうちに、スペックではなくて、時間そのものが変容するかのような、不思議な感覚を抱くようになったのだ。
少なくとも、この時計に関しては「時を刻む」という常套句は通じない。さらに想像力を膨らませれば、刻ませることで、時を限定的に誘導するある種の既成概念からも、解き放たれるのではないか。それが禁欲的で知的なデザインで表現されているところが、この時計をダリの作品でいうアンビヴァレントな魅力に通じると思うのである。
写真の時計は、昨年セイコーがスプリングドライブという機構を開発して20年という節目に発売されたものであるが、話を進めるまえに、まずスプリングドライブの説明を少し加えたいと思う。
この機構は、セイコーが1999年にリリースした、セイコー独自の時計の“エンジン”のことである。有り体にいってしまえば、機械式時計の強いトルクと、クオーツムーブメントの高性能を併せ持った、まったく新しい技術である。
私は時計の専門家ではないので詳細は省くが、ユーザーの立場としてメカニズムの特徴を挙げるとすれば、大きく二つあり、ひとつは完全な無音であるということ。もうひとつは“スイープ運針”ということだ。
運針とは針の動きのことだが、秒針が流れるように動くことを、スイープ運針という。ちなみに、クオーツ時計の場合は、1秒に1秒針進む“ステップ運針”という。一般的に機械式時計はスイープ運針なのだが、厳密には1秒を細かく区切って動いている。しかしこのスプリングドライブは、完全に近いスイープ運針になっている。
たかが秒針の動きに大げさな、と思うだろうか。実は、私も最初はその機構の凄さと価値がよくわからなかったのだが、静謐にそして流れるように動く運針を眺めているうちに、スペックではなくて、時間そのものが変容するかのような、不思議な感覚を抱くようになったのだ。
少なくとも、この時計に関しては「時を刻む」という常套句は通じない。さらに想像力を膨らませれば、刻ませることで、時を限定的に誘導するある種の既成概念からも、解き放たれるのではないか。それが禁欲的で知的なデザインで表現されているところが、この時計をダリの作品でいうアンビヴァレントな魅力に通じると思うのである。
海外の方がグランドセイコーを日本的と表現する理由
これは結果的にいえることなのだろうが、海外の方がこの時計を日本的と表現するのは、もの作りの堅牢さや精緻さだけのせいではないだろう。この運針が、日本人が季節感をして、時の移ろいや、時の流れでイメージする美意識と重ね合わせるからではないだろうか……。
私は海外に旅する時は、日本のテーラーメイドのスーツや着物など、戦略的な部分も含めて、あえて日本製のものを身につけるようにしているが、この時計にも、日本のもの作りのクオリティーを語る道具になればと目論んでいる。ダリ作品ではないが、固執した日本のイメージを、ぐにゃりと変容させられれば、しめたものである。
私は海外に旅する時は、日本のテーラーメイドのスーツや着物など、戦略的な部分も含めて、あえて日本製のものを身につけるようにしているが、この時計にも、日本のもの作りのクオリティーを語る道具になればと目論んでいる。ダリ作品ではないが、固執した日本のイメージを、ぐにゃりと変容させられれば、しめたものである。