TECHNOLOGY

電子技術がリーディンググラスに起こした
大きな「革命」

2018.10.05 FRI
TECHNOLOGY

電子技術がリーディンググラスに起こした
大きな「革命」

2018.10.05 FRI
電子技術がリーディンググラスに起こした大きな「革命」
電子技術がリーディンググラスに起こした大きな「革命」

老眼は、40歳を超える多くの人が直面する大きな問題。この問題を電子技術でスマートに解決する画期的なアイウェアが登場した。開発担当者がその実力と可能性、そして波瀾万丈の開発経緯と、エンジニアとしての今後の夢を語る。

(読了時間:約7分)

Text by Yasuhito Shibuya

老眼は、誰もが逃れられない「目の老化」

英語で「エージドアイ」と呼ばれる老眼は、どんな人も逃れることができない肉体の老化現象のひとつ。男女を問わず誰でも、歳を重ねるごとに近くのものがぼやけて見えにくくなる。原因は「目のレンズ」である水晶体の弾性、また水晶体の厚さを変える毛様体という筋肉の力、その両方が加齢とともに衰えるためだ。

症状は徐々に進行する。単に近く(近方)が見えにくくなるだけでなく、目が疲れやすくなるのも老眼の症状。ただ近視の人はもともと近くに焦点が合いやすいので、遠視の人より老眼を自覚しにくい。「近視の人は老眼にならない」、「老眼鏡を掛けると老眼が進む」という俗説があるがこれは誤り。そのまま放置しておくと、目の痛みや肩こり、頭痛や吐き気の原因にもなる。そしてこの老眼への対処法として最も手軽かつ有効な手段として眼科医が薦めるのが、リーディンググラス(老眼鏡)を掛けること。

とはいえ、リーディンググラスにもタイプがある。近方専用のレンズを使ったもの。上側を遠方用、下側を近方用にした二重焦点レンズを使ったもの。上から下にかけて遠方用から中間距離用、近方用と焦点距離が連続的に変わる累進多焦点(遠近両用)レンズ、遠方用レンズの中に近方用のレンズを窓のように組み込んだ多重焦点レンズを使ったもの、などなど。

中でも累進多焦点レンズを使ったいわゆる「累進メガネ」は、近方はもちろん中間距離、遠方もそのまま見ることができる便利なリーディンググラスとして広く使われている。ただ、累進多焦点レンズには大きな問題がある。使った経験のある方ならお分かりだろうが、一般的な累進多焦点レンズでは、特に中間距離でピントの合う範囲がレンズの中央下部、それも狭い範囲に限られていて、その左右では視界が大きく歪んでしまう。

だから、見る対象に合わせてその都度、視線や頭を動かし、レンズの適切な場所で見る必要がある。階段を上り下りするとき、パソコン作業をするとき、クルマのダッシュボードを見るとき、ゴルフをプレーするときなど、つい視線が下を向くので、レンズの近方用エリアを通して見ることになり、「ぼやけてキレイに見えない」、「うまく距離感がつかめない」などの不具合が起きてしまうのだ。

そのため、せっかくリーディンググラスを作ってもこの問題に直面して、視界の違和感から使わずに放置してしまう人は少なくない。特に筆者のように老眼になるまでメガネを掛けた経験がないと、慣れるのは特に難しいと専門家は言う。実は筆者もなじめずに「累進メガネ」を諦め、文字を読むときだけ使う近距離専用のリーディンググラスに戻ってしまったひとりだ。

この問題を解決するため、独自のレンズ設計で歪みを減らした次世代二重焦点レンズと呼ばれるレンズも開発されているが、残念ながら決定的な解決策にはなっていない。

ボタンを押すと突如、クリアな視界が出現

中間距離での視野が狭い。そして視界の歪みも大きい。このリーディンググラスの課題を、電子技術で解決した画期的なリーディンググラスがこの春、登場した。メガネレンズの素材メーカーでもある三井化学が開発製造し、2018年2月から発売を開始した「TouchFocus™(タッチフォーカス)」だ。
液晶が封入されている部分はレンズの下部。通電するとこの部分の屈折率が1.67から1.53に変わる
液晶が封入されている部分はレンズの下部。通電するとこの部分の屈折率が1.67から1.53に変わる
このメガネのフレームのモダン(先セル)部分には充電式の小型バッテリーが内蔵されていて、正面から左側のテンプルにタッチセンサーがある。そして、このセンサーに触れると、レンズに電気が流れ、レンズの中央部に突如、楕円状の広いリーティングゾーンが出現する。そのため、一般の累進メガネのように視線を下げなくても自然な姿勢で近方を快適に見ることができる。

この驚きの機能の秘密が、世界で唯一、三井化学が開発した液晶レンズ。レンズの一部、中央から下の部分に楕円状に液晶が封入されていて、タッチセンサーでスイッチをオンにするとこの液晶の屈折率が変わる。すると、液晶とレンズ素材の屈折率の違い、そしてレンズ素材に作り込まれた回折構造により、液晶が封入されたそのエリアだけが近方を見るのに最適な度数になる。

だがスイッチがオフの時は、中間距離、遠方を重視した設計のレンズに戻るので、視野も広く歪みも少ない、自然で快適な視界が楽しめる。スタイリッシュなメガネが、スイッチオンで突如リーディンググラスに変身するのだ。

サンプルを試しに掛けてみただけでも、「累進メガネ」と比較すると、スイッチオフでもスイッチオンでも、視野は広く明るく視界の歪みも少なく、見え味の素晴らしさは感動的。特に「累進メガネ」では見えにくい暗い場所でもクリアに見えるのには驚かされた。これはまさにリーディンググラスの「革命」なのではないか。

「世の中に出したい」というエンジニア魂から生まれた奇跡

この「革命」を実現した立役者が、三井化学の新ヘルスケア事業開発室、E-Glass事業開発グループのグループリーダー、早瀬慎一氏だ。早瀬氏と彼が率いる開発スタッフの情熱がなければ、彼らがこの開発に人生を賭けなければ、この革命的なリーディンググラスが世に出ることはなかった。

「どうしてもこのメガネを世の中に出したい。必ず製品化できるし、間違いなくニーズはある。そう確信していました」と早瀬氏は語る。

そもそもこの「液晶レンズを使ったリーディンググラス」のプロジェクトは、三井化学ではなく、早瀬氏や開発スタッフがその前に長く在籍していた会社、パナソニックヘルスケアのプロジェクトだった。アメリカ・シリコンバレーにあったベンチャー企業、ピクセル・オプティクス社(現在は倒産)が「通電すると度数が変わる液晶レンズ」の基本特許を持っており、パナソニックヘルスケアは2008年初頭、この液晶レンズの開発製造を担当する契約を同社と締結していたのだ。

「私がこのプロジェクトに関わったのは2009年から。このプロジェクトの事業化を判断する立場でした。当時は私自身、まだ老眼ではありませんでしたし、当初は事業の将来性に疑問を持っていました。しかしエンジニアたちが事業継続のために設定した課題をクリアしてくる。同年の6月頃には事業の推進を決断しました」
「TouchFocus™」のレンズは9層構造。世界で唯一無二の独創技術だ
「TouchFocus™」のレンズは9層構造。世界で唯一無二の独創技術だ
しかしこの事業の前には、まるで大河ドラマのように、さまざまな障害が次から次へと現れる。ピクセル社に液晶レンズのサンプル供給を約束したものの生産設備を作る許可が下りない。サンプル供給して2011年にピクセル社が行った製品のテスト販売はレンズ以外の品質不良で大失敗。さらには親会社であるパナソニックの業績不振のため、パナソニックヘルスケア社自体が売却されることになり、事業をクローズせよという指令まで下ってしまう。

しかし早瀬氏と開発スタッフは諦めなかった。そして早瀬氏は、会社の承認を得た上でこの事業の譲渡交渉をまとめ、開発スタッフとともに2015年1月に三井化学に転籍。研究・開発を続け、ついに2018年2月、発売に漕ぎ着けたのだ。

「このリーディンググラスなら、そしてこの液晶レンズの技術がさらに進化すれば、老眼になっても、もっと若々しく元気に生活を楽しめる。たとえば、老眼で仕掛けが作れないから趣味の釣りを辞めてしまった。そんなこともなくなるはず」
三井化学の新ヘルスケア事業開発室、E-Glass事業開発グループのグループリーダー、早瀬慎一氏
三井化学の新ヘルスケア事業開発室、E-Glass事業開発グループのグループリーダー、早瀬慎一氏
早瀬氏や開発スタッフにはまだまだ課題や夢がある。USBによるバッテリーの充電をワイヤレスにしてさらに使やすくする。フレームのデザインの選択肢を増やす。レンズの機能のバリエーションを増やし、より多くの人の悩みを解決できるようにする。さらに将来はセンサーを組み込むなどしてメガネ以外の機能も備えたウェアラブルデバイスに進化させるなど。

すべてが独自技術の塊である、世界で唯一無二の液晶レンズを使ったこのリーディンググラスの歴史はまだ始まったばかり。この技術には壮大な未来がある。

この革命的なリーディンググラス「TouchFocus™(タッチフォーカス)」の価格は一式25万円。だが現行の累進メガネでも、高品質なものならこの価格のものは珍しくない。スイッチをオンにしたときの、あの劇的な感覚、快適な見え味を考えれば、この価格は決して高くない。

老眼が気になる方は、ぜひこの「革命」をあなた自身で体験されてはいかがだろう。
フレームは男女合わせて現在3タイプ、カラーは20種類。1回の充電で普段使いなら1週間程度使用可能
フレームは男女合わせて現在3タイプ、カラーは20種類。1回の充電で普段使いなら1週間程度使用可能

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