典型的な安南茶碗の約束に則って焼かれた作品
この安南焼の茶碗は、今から10年ほど前にベトナムのホイアンの骨董屋で手に入れたものである。「安南」とは、中国が唐時代に現在のベトナム北部を支配するために設置した安南都護符(あんなんとごふ)に由来する。それがいつの頃からか、ベトナムで焼かれた焼き物に冠されるようになった。
安南焼の多くは、16〜17世紀初頭にかけて、朱印船を通じて日本に渡ってきた。この茶碗はそれほど顕著ではないが、このように滲んだ染付は“絞り手”と呼ばれ、日本の茶人や好き者たちに愛玩されてきた。おそらく当時の日本人は、その不完全な滲み加減を、日本の絞り染めに求めるような美意識として見立てたのだろう。
この茶碗がいつ焼かれたのかは分からないが、口縁は端反り(はぞり)になっていて、灰青色の青料で文様を描き、その上にやや黄色味を帯びた透明釉を施している。外側と見込みには唐草文。腰の部分には五枚の蓮弁文が描かれ、典型的な安南茶碗の約束に則っている。写真では分からないが、深く削った高台内部は鉄銹(てっしゅう)が塗ってある。これは通称「チョコレート・ボトム」という技法で、ベトナム磁器の特徴の一つとなっている。
安南焼の多くは、16〜17世紀初頭にかけて、朱印船を通じて日本に渡ってきた。この茶碗はそれほど顕著ではないが、このように滲んだ染付は“絞り手”と呼ばれ、日本の茶人や好き者たちに愛玩されてきた。おそらく当時の日本人は、その不完全な滲み加減を、日本の絞り染めに求めるような美意識として見立てたのだろう。
この茶碗がいつ焼かれたのかは分からないが、口縁は端反り(はぞり)になっていて、灰青色の青料で文様を描き、その上にやや黄色味を帯びた透明釉を施している。外側と見込みには唐草文。腰の部分には五枚の蓮弁文が描かれ、典型的な安南茶碗の約束に則っている。写真では分からないが、深く削った高台内部は鉄銹(てっしゅう)が塗ってある。これは通称「チョコレート・ボトム」という技法で、ベトナム磁器の特徴の一つとなっている。
17世紀初頭に東南アジア最大の日本人街があったホイアン
さて、ホイアンは僕がアジアで最も好きな街の一つで、東洋のベネチアとも呼びたくなるような美しい港町で知られるが、17世紀初頭に東南アジア最大の日本人街があったのをご存じだろうか。
記録によると、1617年に三浦按針(ウイリアム・アダムズ)が平戸からホイアンに向い、日本人街が形成されているのを目撃している。最盛期にその日本人の数や1000人を超えていたという。徳川幕府による朱印船の交易が始まったのは1604年であるが、鎖国政策が実行された1635年までに、合計356隻の朱印船が日本を発った。その最多の渡航先がホイアンだった。
当時のホイアンは東南アジアにおける「海のシルクロード」の拠点として繁栄の極みにあり、交易による一攫千金を夢見た多くの日本人が移り住んでいた。安南焼は、その重要な輸入品の一つだったに違いない。おそらく、こうした安南焼の多くは日本の茶人好みに合わせて発注されていたのだろう。この茶碗のデザインや文様には、当時の日本人が憧れた、海のシルクロードへのロマンが詰まっているのである。
ちなみに、ホイアンの日本人街に住んでいたほとんどの日本人たちは、1635年の鎖国政策により帰国を余儀なくされるのだが、200人ほどは現地に残ったと伝えられている。そのうちの一人なのだろうか。ホイアン郊外には、1647年に建てられた谷弥次郎兵衛という日本人の墓が今でも残っている。僕も、一度だけ墓参りに行ったが、日本の方角に向かって建てられたその立派な墓は、現地の人たちによって大切に守られていた。
谷なにがしという人物がどんな理由でホイアンに渡ったのか、なぜ帰国せずにホイアンに骨を埋めたのかは、何の資料も残っていないので知るすべもないが、現地に尽力したことは墓の様子からも伝わる。現地の女性と恋仲になったか、あるいはホイアンを永遠の故郷として愛してしまったか、あるいはその両方なのか。僕自身がホイアンに惚れ込んでしまっているためか、この安南の茶碗で一服のお茶を点てるたびに、麗しいロマンばかりが香りたつのである。
記録によると、1617年に三浦按針(ウイリアム・アダムズ)が平戸からホイアンに向い、日本人街が形成されているのを目撃している。最盛期にその日本人の数や1000人を超えていたという。徳川幕府による朱印船の交易が始まったのは1604年であるが、鎖国政策が実行された1635年までに、合計356隻の朱印船が日本を発った。その最多の渡航先がホイアンだった。
当時のホイアンは東南アジアにおける「海のシルクロード」の拠点として繁栄の極みにあり、交易による一攫千金を夢見た多くの日本人が移り住んでいた。安南焼は、その重要な輸入品の一つだったに違いない。おそらく、こうした安南焼の多くは日本の茶人好みに合わせて発注されていたのだろう。この茶碗のデザインや文様には、当時の日本人が憧れた、海のシルクロードへのロマンが詰まっているのである。
ちなみに、ホイアンの日本人街に住んでいたほとんどの日本人たちは、1635年の鎖国政策により帰国を余儀なくされるのだが、200人ほどは現地に残ったと伝えられている。そのうちの一人なのだろうか。ホイアン郊外には、1647年に建てられた谷弥次郎兵衛という日本人の墓が今でも残っている。僕も、一度だけ墓参りに行ったが、日本の方角に向かって建てられたその立派な墓は、現地の人たちによって大切に守られていた。
谷なにがしという人物がどんな理由でホイアンに渡ったのか、なぜ帰国せずにホイアンに骨を埋めたのかは、何の資料も残っていないので知るすべもないが、現地に尽力したことは墓の様子からも伝わる。現地の女性と恋仲になったか、あるいはホイアンを永遠の故郷として愛してしまったか、あるいはその両方なのか。僕自身がホイアンに惚れ込んでしまっているためか、この安南の茶碗で一服のお茶を点てるたびに、麗しいロマンばかりが香りたつのである。
VOL.6ラオスの織物で仕立てた角帯