STORY 01
ウッズに憧れ、
16歳で日本の頂点に。
-2013
- HIDEKI MATSUYAMA
- STORY 01

1992年2月、愛媛県松山市で生まれた松山英樹は4歳でゴルフを始めた。父に連れだって向かった近所の練習場。
クラブを手に取るや否やボールを打つことにのめりこみ、幼少期から数百球打ち込む日も珍しくなかったという。
ひとつのスポーツを超越したスーパースター、 タイガー・ウッズに将来の姿を重ねた少年時代。 中学2年時には親元を離れ、強豪ゴルフ部を持つ高知県の明徳義塾中学に編入、明徳義塾高校2年時に全国高校選手権を制して初めて日本一になった。 だが当時、日本のゴルフ界を席巻していたのは同学年の石川遼。 すでにツアーを率いる存在だった高校生プロの活躍に刺激を浴びながら、 松山はじっくりと根を育てた。
2011年、マスターズから
招待が届く。
宮城県の東北福祉大に進学して間もなく、蕾が芽吹く。1年生だった2010年の秋、日本で行われたアジアアマチュア選手権(現アジアアマチュアパシフィック選手権)で優勝し、翌2011年4月の男子メジャー・マスターズに招待された。その1カ月前、 東日本大震災により大学のある仙台市は被災地に。 出場辞退も考えた19歳(当時)は、周囲に背中を押されて立った夢の舞台でその期待に応えた。出場したアマチュア選手で最高位の27位で大会を終え、 アジア人として初めてローアマチュアに輝く快挙を遂げた。
「またここに戻ってきたい。戻ってこなくちゃいけない」。 マスターズを経験して、松山の進撃は勢いを増した。
7か月後の11月、三井住友VISA太平洋マスターズを制し、日本ツアーで石川以来、史上3人目のアマチュア優勝を達成。2013年春、大学4年でいよいよプロ転向すると、初年度に日本でいきなり4勝をマークし、 史上初めてルーキーにして賞金王の座に就いた。
国内でプロとしての第一歩を踏み出した一方、同じ年には早くも世界に飛び出す準備を進めていた。全米オープンで10位、全英オープンで6位に入るなど、スポット参戦した海外の大会で好成績を残し、ウッズらがプレーするPGAツアー(アメリカ男子ツアー)の出場資格を獲得。恐るべきスピードでステップアップに成功したのだった。
幼少期〜アマチュア時代
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- 1992.02
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愛媛県松山市に生まれる
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- 1996
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アマチュアゴルファーの父に習い4歳でゴルフを始める
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- 2005
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中学2年時に親元を離れ、高知県の明徳義塾中学に編入
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- 2008
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明徳義塾高校2年時に全国高校ゴルフ選手権大会で優勝
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- 2010
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東北福祉大学1年時にアジアアマチュア選手権で優勝
翌年のマスターズ出場資格を手に入れる
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- 2011.03
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東日本大震災により大学のある仙台市が被災
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- 2011.04
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被災者からの激励に背中を押され、マスターズ初出場
アマチュア選手で最高位の27位を記録。アジア人初のローアマチュアに
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- 2011.11
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三井住友VISA太平洋マスターズ制覇
史上3人目となるアマチュア日本ツアー優勝を達成
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- 2012
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日本人として初めて世界アマチュアゴルフランキング1位に輝く
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- 2013
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大学4年時にプロ転向を宣言
#WITH_HIDEKI で松山選手に声を届ける
今も記憶に残るあの名シーン、記事を読んで心に響いたこと、あなたの声をNEWS MATSUYAMA新聞に載せて松山選手に届けませんか?
新聞は全国のレクサス店舗やゴルフ場で4月上旬配布予定です。


勝負服編
松山選手の
パーソナルな
一面を深掘り!

練習日から4日間のトーナメントまで、コーディネートは自分で決める松山選手。
勝負服の色が黄色であることは有名ですが、そうなったきっかけとは?
10勝を支えた
バディ限定発売決定
LX 700h HIDEKI MATSUYAMA EDITION

内装には松山選手の
ラッキーカラー
黄色と白を採用

レクサス所属選手として海外ツアーに参戦して10年以上。
良い時も振るわない時も、レクサスは松山英樹の相棒として共に走ってきました。
米ツアー10勝を記念する特別仕様車“HIDEKI MATSUYAMA EDITION”については松山選手が一番好きだと公言しているマンガンランスターのLXに、10勝目を決めた日のウェアカラー、白と黄色を内装として着せることに。この「白」は勝利を象徴する色であることに加え、新たな始まりを想起させる色でもあります。
次なる挑戦に向けて新たなスタートを切っている松山選手の「今」にも重なるデザインとなっております。