ART / DESIGN

ミャンマーで出会った蒟醤の茶箱

2017.06.19 MON
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ミャンマーで出会った蒟醤の茶箱

2017.06.19 MON
ミャンマーで出会った蒟醤の茶箱
ミャンマーで出会った蒟醤の茶箱

ミャンマーを代表する漆工芸である蒟醤(キンマ)。かつて、千利休も愛用したことで知られるその茶箱を彼の地で手に入れた中村孝則氏が、逸品との出会いを語る。

(読了時間:約3分)

Text by Takanori Nakamura
Photographs by Masahiro Okamura

ミャンマーはバガンでの密かな目当て、蒟醤の骨董探し

この蒟醤(キンマ)の茶箱は、ミャンマーのバガンの骨董屋で手に入れた。いまから、10年ほど前のことである。ミャンマーは今でこそ、ANAが日本とヤンゴンの直行を結び、米国などによる厳しい経済制裁も解かれて行きやすくなったが、当時は直行便もなく入国ビザも厳しかった。

当時、カード雑誌の紀行文を執筆するための取材で訪れたが、私が文筆家だと知った大使館は、入国に際して「現軍事政権を批判するような言動は慎む」というような念書を要求した。まあ、それはひとつの儀式みたいなものだったのかもしれないが。ともかく、初めて訪れたミャンマーは、想像を裏切るくらいに素晴らしかった。長く続いた経済制裁が皮肉にも、海外資本による乱開発から美しい風土の景色を守っていた。かつての日本の里山もこんな美しさだったのだろうと感慨深かった。経済開放した今後は、この風景も一変するだろうと思うと、複雑な想いも横切るのだった。

その旅で特に印象的だったのが、バガンという古い街並の風景だ。バガンには、パゴダと呼ばれるさまざまな仏塔が約3000基もあり、自然豊かな大平原に屹立する姿は、壮観ですらあった。風景撮影の常として、電線や人工物がフレームワークの邪魔をするのだが、その鬱陶しさから開放されたカメラマン氏が嬉々とシャッターを押していたのは懐かしい思い出だ。

天候にも恵まれて撮影を順調に終えた私たちは、この街の密かな目当て——骨董探しに出かけることにした。バガンはこの国を代表する漆工芸である蒟醤の産地だからである。蒟醤とはこのあたりで嗜好される植物の名前に由来する。日本では古くから、それを入れる漆塗りの容器を指し、転じてその漆工芸の種類をそのように呼ぶようになった。籠地に朱漆を塗り、それに黒漆の象嵌(ぞうがん)で文様を施した物で、使い込むほどに日本の古美術愛好家が珍重する根来(ねごろ)のような風合いになるので、物好きの愛玩の対象になった。

千利休も愛用した蒟醤の茶箱

いち早くその魅力を世に示した一人が、あの千利休である。さしずめ利休が愛用した蒟醤の茶箱は、その象徴であろう。以来、蒟醤の茶箱は南国の憧れの漆工芸品として、茶人の垂涎の的になっている。

私も茶人の端くれとしていつかは利休よろしく、蒟醤の茶箱が欲しいと願っていたが、仮に桃山時代や江戸時代の伝来の質のいい蒟醤の茶箱が出たとしても、数十万もしくは数百万円以上はするはずだ。とても手がでる代物ではないので、現地のバガンで探そうという魂胆だった。

幸い、バガン周辺には骨董屋と称するお店が何軒もあるという。ところがどこの店を廻っても、最近の手の土産物程度のものばかりで、私が求めるような、古くて手擦れの入った良質の茶箱サイズの蒟醤は見つからなかった。

取材の最終日だっただろうか、地元の人を頼りに教えてもらった郊外の小さな骨董屋で、ようやくこの茶箱に出会ったのであった。店主によると地元の寺に伝わる200年以上昔のものだという。その真偽はともかく、手擦れの使い込んだ風合いに一目惚れしてしまった。ところが、店主も強気で、15万円だと吹っかけてきた。そりゃないだろと2時間の押し問答の末、言い値の半分以下まで値切ってようやく購入をした。

さて買っては来たものの、茶箱というのは中身をコーディネートしてこそ完成するものである。大きさの頃合いは最高なのだが、丸い箱に茶碗や振出しや茶筅筒や茶巾筒を、ぴったり仕込むのは容易ではない。しかも、この蒟醤の雰囲気に合わせるとなると、どうしてなかなか。中身がいまだ収まらないので、茶会デビューできずにいる。結局のところ、私の蒟醤を巡る旅はまだ道半ばのままなのである。

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ご回答いただきありがとうございました。

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